「親の話と茄の花は千にひとつも無駄がない。」/9月3日

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『里の在処』の中で、内山さんは村人のおばあちゃんの言葉を紹介している。
「親の話とナスビの花は千にひとつも無駄がない。」
親の話とは、親が子供に聞かせる話のこと、
例えば、畑のつくり方、山の扱い方、村の習慣などで
将来村で暮らす子供にとって、それは「千にひとつも無駄がない」話だっただろう。
しかし内山さんは「でも最近では」と思ったものだったと感想を述べている。

今の時代は、親は子供にとってどんな存在なんだろう。
「生きる」と「暮らす」は昔は同じ意味だったのだと思う。
でもいまは違う。
今の暮らしには生きる知恵も技もない。つまり生きる力は育たない。
僕らは子供たちに生きる力を与えることができなくなった。
もっと言えば、僕らには生きる力がない。
食べ物のつくり方も、木の切り方も知らない。

でも僕にも誇りがあることを思い出した。
僕は東京下町の門前仲町の酒屋で育った。
日々の仕事はそこで生きることに直結していた。
野菜のつくり方はわからなくても、
生ビールのつぎ方は知っていた。
山の手入れも知らないけれど、
自動販売機の扱いは知っている。
村の習慣はしらないが
神輿の担ぎ方は習った。

なにも自給自足が生きる力の全てじゃないと
僕はまだ思っている。

今となっては何の役にも立たない無駄な力。
でも無駄にしたのは親じゃない。僕のほうだ。
いやこの現代社会か。
山村だけじゃなく都市だって同じことが起きている。

国家とは、地域とは、家族とは何か。
変わらない揺るがない信念をもちたい。

2022.9.3野生の時間