百掌往来2022年 新春号外 No.0/1月8日

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秘密基地の梅の木。
うっすら枝先が赤くなっているのが遠目でもわかる。春の予感。

百掌往来2022年 新春号外 No.0

【1】 百掌往来 No.0 「生命に嫌われないように・・・」
ー文・岩間湛教/小林智行

生きるということは、ある意味では生命を殺しつづけなければならないことでもあります。
生きるためには、食べていかなければならないからです。
そして食べるということは、他の生命を取り込むことだからです。
だからヨダカは、ある晩、つぎのように苦悩しました。

「一疋ぴきの甲虫が、夜だかの咽喉にはいって、ひどくもがきました。よだかはすぐそれを呑のみこみましたが、その時何だかせなかがぞっとしたように思いました。
雲はもうまっくろく、東の方だけ山やけの火が赤くうつって、恐ろしいようです。よだかはむねがつかえたように思いながら、又そらへのぼりました。
また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)」(宮沢賢治『よだかの星』より)

せめてその生命を大切に、無駄なく大事に「いただく」ことで、わたしたちはその罪悪感に言い訳しますが、やはり生命を奪われる側に立ってみれば、たとえどんなにそれが生きるためにやむを得ないことであっても、たちえどんなに有効活用してもらったとしても、命を奪われるつらさにかわりはないでしょう。

ところで、「百姓」という言葉は、いまでは農業に従事する人を意味するように聞こえてしまいますが、もともとは、農業もその一部として含んだ村落共同体の様々な職種全体を意味する、と指摘したのは歴史家の網野善彦氏でした。
つまり農業をはじめ、漁業、牧畜、機織り、採石、鍛冶屋、大工、紺屋、皮革業者、軍人などなど、多くの様々な技術が連鎖して社会を営んでいる様子を「百姓」というわけです。
つまり百姓とは連鎖する技術の集合体であり、その連鎖のなかで私たちは、生命や物質を道具や素材として加工し、姿かたちを変化させ、そのエネルギーを利用しながら、社会をまわし、その一部として生き、また死んできた、というわけです。

もちろん、その連鎖の輪に含まれているのは人間だけではありません。
牛、馬、豚、米、麦、果物、魚、石、樹、微生物、その他多くのものが道具として、また素材として、その連鎖に組み込まれてきました。
こうしたもろもろもその連鎖に不可欠であれば、かれらも百姓と呼べるのかもしれません。

だから百姓を、「輪廻」と呼び換えることが出来るかもしれません。
この連鎖のなかを時には物になったり、有機物になったり、その道具や素材になったりしながら、利用され、食べられ、一つのエネルギーがつぎつぎ等価交換されていく様子は、生死をまたいだ変身、「生まれ変わり」と類比できるからです。

つまり百姓とは、もっとずっと大きく、生と死のめくるめく連鎖全体のことなのかもしれません。
そして、そこに組み込まれることで、今日も私はなんとか生きているわけですが、そこには、あのヨダカが教えてくれたように、死の苦しみや生きることの残酷さも不可避というわけです。

だから釈尊は、ヨダカが「僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう」とつぶやいたように、その輪廻からなんとか解脱することをすすめますが、きっとそれは、よく生きることでもなく、死んでどこかに生まれ変わることでもないのかもしれません。
なぜなら、生きることも、死ぬことも、この輪廻する百姓のなかの一つの歯車なのですから。

せめて生きているうちに出来ることは、その連鎖の只中で、その輪廻を自分に都合よく利用しないように気をつけること。そしてあのヨダカのように、辛く悲しいところにも目を背けず、言い訳しないこと。
輪廻から抜け出せるかどうかは分かりませんが、せめて努めることで可能なことを、つねに忘れてしまいがちなこのことを、令和四年の念頭に、自戒の念を込めて。

正月早々から、重い文章になってしまったかもしれませんね。ごめんなさい。

でも、妥協や偽善とは真反対に立ちながら、つねに優しく親切でいつづける小林くんですから、百姓ということを巡って、飾らず思うままに書くことができると思ったのでした。
それはまた、私自身がつねに逃げ込もうとしてしまうタテマエやキレイゴトを、すこしでも遠くに離しておきたいと思ったためでもあります。

恵子さん、多聞くん、聞司くんによろしく。
合掌。南無妙法蓮華経。

                                         昌福寺 岩間湛教

——

岩間湛教様

あけましておめでとうございます。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。

どんな仕事もひとりきりでは成立しない。
向かい合う相手がいて、助け合う仲間がいて、
肩を並べるライバルも、背中を追う人もいて
それらを縁の下で支える大きな社会の上に成り立っている。
僕もまた知らず知らず誰かの足元を支えている。
漠然とずっとそんなイメージを持って生きてきて
そして、それは年々、深まっているように感じています。

百掌往来は、靴職人の教科書をつくるために始めましたが
いざ始めてみると、伝えたいことは靴づくりの手技ではありませんでした。
考えてみればそうもそうで、手技は言葉で残せません。
それに、
どうすれば良い靴がつくれますか?と聞いてくる人もj実際いなくて
良い靴とは何か、一つ一つ個性豊かな答えを持っている方ばかりです。
それは僕以上だとか、そんな安っぽい誉め言葉で簡単に優劣をつけることがバカバカしく思えてしまいほど、本当にみな輝いています。

だから僕が格好つける必要もないし、
無理に飾るようなことをせずとも、いやむしろ飾らないほうがいい。

でもできることなら、
自分は誰かを輝かせる人になりたいと、強く願っていることは否定できません。
もっと言ってしまえば、その誰かとか恵子さんであり、多聞であり、聞司です。
優先順位があること、そのためには犠牲も厭わないこと、その判断基準は間違えてはならないと、遠まわしに教えてくれたのは、(勝手にそう思っているだけですが)湛教さんです。多聞がまだ2~3才のころ、まだまだ新米父だったころです。
その時から霧が晴れて
今日まで迷わず、自分の願いに正直に進めてこれた気がします。

そうして10年近く経って、思う存分生きてきて
その優先順位に変わりはないけれど、同じように大切な人達が増えました。
でもその分辛い選択も同じように増えているかというと実はそうでもないんです。
すこし器用になったのか、それとも薄情になったのか、
自分でもよくわかりませんが、
「大切にする」ということが、自分のなかで変わってきたことは確かです。

話が逸れました。
百姓の解釈について、網野善彦氏の歴史観にはじめて触れましたが
もう驚くくらい共感できました。
百掌往来の「百掌」は百の職の意味で付けた僕の勘は正しかったと
ちょっと嬉しくなりました。網野氏の本もアマゾンで早速買っちゃいました。
そして湛教さんがおっしゃられる
『百姓は生と死を巡る連鎖全体である』は
百掌を「百生」、往来を「連鎖」あるいは「輪廻」へと変容していく未来を感じさせてくれました。
僕の好きな絵本『死んだ かいぞく』が頭に思い浮かびました。
死んだかいぞくがお腹のすいた小さな魚たちに「君を食べてもいいかい?」と聞かれ
それまでずっと所有欲に囚われていた海賊が
「いいよ、おれは今まで数えきれないほどお前たちをたべてきたんだからな」とこたえるシーンが中でも一番好きです。
好きなんですが、、僕も死んだときに、かいぞくのようになれるだろうかと不安でしたが
「今日も私はなんとか生きているわけですが」という湛教さんの言葉で
なんとか生きているのは魚だけじゃない、自分も同じだとわかって、
そう思えたら、遠慮なく生きて、遠慮なく散っていこうと前向きになれました。

長々とまとまりのない話をしてしまいました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
湛教さんへの感謝をお伝えしたく書かせてもらいました。
新年早々、本当にありがとうございました。

この春、3年ぶりに昌福寺の空気を吸いに行けることを
なにより岩間家のみんなと会えることをとても楽しみにしています。

小林

2022.1.8百掌往来