美しい眼/3月15日

先週ずっと体調不調で怠くて仕方がなかったのことが嘘のように
今日は朝から晩までたっぷり製作ができた。

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この3つのシューベース、22,23,24のものだが
右がニュートラル。中央が外反矯正。左が内反矯正。
同じCOMMONでも形はひとそれぞれ。
見た目にはわからない。
履いてみるとなんとなくわかる。その程度。
でもその小さな手間が僕の靴の大きな特徴だ。

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久しぶりの夜の工房。暖かくなってきたので仕事も+数時間できる。
昼間とは違う音楽をかけて、深く週中できる。
時折聞こえてくる子供たちの笑い声で居間の3人の様子を伺いつつ
夜の仕事を手早く終える。

昨日のことを思い出していた。
うどんようのお椀を探しているとくらしのギャラリーの仁科さんに相談したら
展示会初日にもご家族で遊びに寄って頂いた仁城逸景さんの漆椀を紹介してくれた。
季刊誌【住む。】で逸景さんのお父さん仁城義勝さんが紹介されていた内容が
いまだに忘れずに自分の仕事道の道しるべになって、いつか手にしたいとずっと思っていたお椀だ。
義勝さんは昨年引退され、今は息子さんの逸景さんが仁城のお椀を一手に引き受けているとのことだった。
面白いことに、形は親子で違うらしい。僕にはその差はわからなかった。
お椀の内側の形が、逸景さんは大きな丸みをしていることに対して
義勝さんは外の輪郭と同じように内側も削り出しているらしい。
どうしてそのような形に削るのかと聞いたら、理由は「その方がたくさん入るから」。
美しい形にすることよりも、優先されることは道具としての質。美しさは二の次。
それでも美しく仕上がってしまうところがカッコいい。

僕は、何を美しいと感じるかは人それぞれだから
自分にとっての美しさを他人に押し付けないようにしたい。といつも思っている。
これ美しいでしょ?って聞くのは野暮だ。
同意を得ずとも、自分ひとりの心の中で美しいと存分に感じればいい。
仁城さんもきっと自分のお椀やお椀づくりを美しい眼で見ていたはずだ。
美しさとはそういうものだと思う。
美しさは自分の外ではなく、自分の内側にあるものかもしれないと思った。

己の中にある【美しさ】を失ったとき、僕はきっと死んでしまうだろうと思った。
【美しさ】とは命と同じくらい尊い。

20年前の3月15日、ひとつの命が消えた日のことは忘れることができない。
あの日からずっと僕にはどこを探しても【美しさ】はみつからなかった。真っ暗だった。
2年後妻に出会い、僕の眼に【美しさ】が再び宿った日のことも忘れてはいない。