功/12月5日

今日、多聞に
「おとうさん、僕が自分から乗馬したいって言ったんだっけ?」
と聞かれた。
「どうして。乗馬が嫌いか?」
と聞き返してしまった。
「そういうわけじゃない。嫌いじゃない。」
と言う。
「やめたいのか?」とたずねる。
「やめたくない。指が動くようになりたいから。」
想像していなかった返事が返ってきて
僕は心臓が止まりそうになった。

それは僕も、周りもずっと多聞に言い聞かせてきたことだった。
「身体が強くなるよ。」
「足が速くなるよ。」
「指がもっと自由に動かせるようになるよ」
多聞はそれをずっと信じているから続けているだけで、
お馬さん大好きだからではない。

実際日々の多聞の乗馬は
馬と仲良くなるとか、いっしょに成長するとか
そういう乗馬の世界ではない。

鞍の上で後ろを向いたり、寝そべったり
馬のたてがみやお尻をさわったり、
馬の上という不安定な環境で、身体を動かす訓練をしている。

子供好きな優しいお馬さんが選ばれて、
彼らは多聞たちのその訓練を手伝ってくれている。
多聞たちはそれに感謝して、おやつを上げたり、ブラッシングをしてあげる。

僕はいつの間にか
多聞に「多聞はいいなぁ。乗馬が毎日できて羨ましい」と言うようになっていた。
多聞が馬が好きで楽しいから通っていると思い込んでいた。

多聞は日々、自分の体のために訓練している。
訓練してもらっている。
お馬さんが優しいから、友達や先生といっしょだと楽しいから
かろうじて訓練を続けていられる。
多聞はその葛藤のなかでいつも揺れ動いていることを
僕はもっと理解してあげなくちゃならない。

小学校だって、同じ。
多聞は自身が他者よりも劣っていることを自覚している。
もちろんそれは限られた、でもわかりやすくて比較しやすい世界の中でだけのことだが。
学校がすごく楽しいから通っているわけじゃない。
授業は正直嫌いらしい。図工は好きだけど、嫌いな時もある。
道徳が特に嫌いというのは、この前はじめて知った。

「嫌いなのに、そこに行っているのはどうして?」
「行かなくてもいいんだよ」
僕はすごく意地悪なことを言う。
何をいまさら、どの口がそれを言う。と自分で自分に叱責する。

多聞はやっとのことで
「なんとなく過ごしている。」という。
嫌な時はぼーとしてその場が過ぎるのをただ待つ。
それはひとつのすごい特技だ。
でも、そういう時間の使い方とか、自分を騙すような特技が身についていいのだろうか。

「今」がもったいないというか
できればいつだって楽しい「今」を過ごしてほしい、と思ってしまう。

3年間、多聞はほとんど愚痴をいわず、通い続けてきた。
身体が強くなったかといえば、当然逞しくなった。
でもまだまだ本人も僕も納得の成果が出たとは言えない。
自分を騙すことも、嘘をつくのも、苦労するよ。
本人の精神力もそろそろ限界なのかもしれない。

動く時だろう。
多聞の意志を一番に尊重する時だろう。

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今日届いたオイルバケッタ。
いよいよ本製作。
これからまた細かなところを修正修正の繰り返しだ。
納得のいくものをつくれたという実感が得られるときは
僕の場合、失敗を乗り超えられた時だ。
言い換えれば、失敗なくして成功はない。
(功とは、労力をつくして事を成し遂げた結果)とある。

失敗はなにも恐れることはない。
恐れるのは失敗することになれてしまうことだ。

失敗は悔しい。惨めだ。イラ立つ。
出来ない自分は価値のない人間だと思う。

そこから僕はどうやって立ち直ってきたのだろう。

僕にとっての「功」とはなんだろう。

2020.12.5家族